「東北の地にローカルヒーローを」ワークショップデザイナー 相内洋輔さん

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相内さん

つなげる30人プロジェクトの魅力と現実をお届けするために、プロジェクトマネージャーの加生健太朗が関係者やメンバーの心境を丸裸にするインタビュー企画第三弾!

今回は、東北を拠点にワークショップデザイナーとして活動し、「気仙沼をつなげる30人」のプロデューサーを勤めた相内 洋輔さんにお話を伺いました。

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相内 洋輔
ワークショップデザイナー

リクルート(株)、(公財)東日本大震災復興支援財団を経て、2018年にワークショップデザイナーとして独立。人が自分の意図に沿って自由に前進できる世界の実現を目指して、自己探究の機会を提供している。青山学院大学ワークショップデザイナー育成プログラム修了 / LEGO® SERIOUS PLAY® 認定ファシリテーター

 

 

「お父さんは震災の復興にどう貢献したの?」

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ーー相内さん、本日はよろしくお願いします。まずは、ひとつのキーになったであろう東日本大震災について聞かせてください。震災が起こった時は東北にいたんですか?

はい。当時は仙台にいました。
ぼく自身の被害としては大したことはなく、家具や家電が壊れたぐらいです。ただ、大学の先輩や友人が津波に流され、身近なひとが亡くなる経験をしました。

当時、リクルートで不動産広告の仕事をしていたのですが、被災を受けて家をなくしてしまった方々が多くいたこともあり、「力になりたい!」の一心で仕事と向き合っていました。

しかし、マーケットに物件がない状態になり、新規で出てくる物件はどんどん高騰していきました。最終的にはお金がある人しか物件を買えない状況になってしまっていて、そこにジレンマを感じるようになったんです。

その状況を受けて、「自分は震災復興のために何か力になれているのか?」と疑念を抱くようになりました。

そんなある日、仕事を終えて家でビールを飲んで、ふとテレビをつけると震災に関するニュースがやっていたんです。それを見て、僕の親世代は宮城県沖地震を経験しているのですが、母から当時のエピソードを教えてもらっていたなぁと思い出しました。

その時はまだ子どもはいませんでしたが、子どもが生まれたら父や母と同じように、折に触れて震災の話をするんだろうなぁと想像が膨らんだんです。「あの震災は、本当に大変だったんだよ」と。

そうしたことを頭の中で考え会話を妄想しているうち、まだ見ぬ我が子にこう尋ねられました。

「そんなに大変だったんだね。お父さんは震災の復興に、どう関わったの?」

それに対して答えられないことにハッとして、ちゃんと震災の復興に貢献したと胸を張って言えない自分だったら後悔することに気がついたんです。その経験があって、当時の仕事を辞めることを決意しましたね。

 

ーーまだ見ぬ子どもから言われたのはすごい経験ですね…

こうした背景で、転職サイトに登録し復興に携われる職を探すようになりました。その中で出会ったのが「公益財団法人東日本大震災復興支援財団」です。

自分がやりたいことのど真ん中を行く団体名だったのでとても興味を持ち、活動の理念などを調べてみると、東北の若者のために支援活動を行っていることが分かりました。

以前から若者に関わる仕事がしたいという想いを持っていたので、震災復興×若者というテーマならコミットできる!と感じ入団を希望。

入団した2013年に感じたのは、メンバーそれぞれが覚悟を持って働いているプロフェッショナルの集団だということでした。前職であるリクルートの同期や諸先輩方も相当高いレベルで仕事にコミットされていたのですが、財団の現場に立っている方々の覚悟はこれまで出会ったことのないレベルの高さでした。

 

ーー財団での経験を経て、ワークショップにたどり着いたのですか??

そうですね。当時の財団は、官公庁や電通、ソフトバンクで専門職として働かれていた方などプロフェッショナルとしての知識や経験が豊かな先輩ばかりで、皆さん特定の分野での強みをもっていました。

しかし、ぼく自身は営業しかやったことがなく、中間支援団体としての事業を創造するための能力が足りていませんでした。

そのため「自分にできることは何なんだろう」と、1年くらい悩む時期を過ごしたんです。

そうした時に、担当事業で実施したワークショップを共催者や先輩方に認めていただき「自分の活きる道はここか!」と気づくことができました。ワークショップを通じて、”質の高い対話の場を創り出すこと”に貢献すればいいじゃないかと。大学生時代にワークショップに没頭していた経験が役に立つと分かり、ホッとしましたね笑

当時、助成金事業の担当もしていて、常時50~100団体ほどのNPO法人とやりとりをしていたんです。みんな口を揃えて言うのが「他のNPOがやっている活動はあまり知らないなぁ」ということでした。中には、他の団体を敵視しているような口ぶりで話されている方々もいて、仲良くなる気もないように聞こえました。

それを聞いていて「なんでライバル視するんだろう? 協働できることがあれば、より支援活動の質が上がるのでは?」と疑問に思っていました。そのため、ワークショップでの場作りを通じて、団体同士の相互理解に貢献できるかもしれないと気づいた時は、とてもやり甲斐を感じましたね。

 

 

東北の若者を盛り上げたい!

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財団には5年間お世話になり、その後フリーランスとして独立していくのですが、独立は人生のタブーだと思っていました。

 

ーー人生のタブー?

ぼくの実家は自営業をしていて、借金で大変な思いをした経験があります。だから会社員として安定的にお金を稼ぐことが大事だと、強く自分に言いきかせてきた15年間でした。

なので、独立の道を選ぶことは考えていなかったんですけど、だんだんと組織の枠の中におさまるのが窮屈に感じてきてしまったんです。

雇われている以上、個人の想いよりも会社の方針を優先しないといけないシーンが多い。でも僕は、東北の若者にもっとたくさんのワークショップを届けたいという想いが日増しに強くなっていて、フラストレーションが溜まってしまいました。

それを考えると、転職という選択をしても、大なり小なり同じ状況に直面する可能性が高いなと思ったんです。

当時コミットしたかったのは「東北の若者が自分の意図に気付いて、そのために前進すること」を後押しする場作りです。

そこに繋がらないことはしたくなかったので、残った選択肢としてフリーランスでやっていくしかなかったんです。一緒に仕事をしていく方が近くにいたこともあり、独立の道を選びました。

 

ーー財団のときは東京と東北を行き来しながらも、拠点を完全に仙台へ移したのは何故なんですか?

独立を決めた時、妻と拠点をどこにするか?と話して、「東京」「仙台」「その他の場所」の3つのプランを妄想してみました。

それぞれを考えてみたときに、東北の同士とのつながりを無にすることはもったいなさすぎると思ったんです。なので、もう少し皆さんと一緒に面白いことを仕掛けたいと思い、仙台の道を選びました。

 

ーーなるほど。Slow Innovation社との出会いは、仙台に拠点を移されてからですか?

そうですね。いきなり完全にフリーになるのは怖かったので、最初は財団の仕事をいただきながら活動をしていました。

ちょうど契約が残り1ヶ月というタイミングで、野村さんからお声がけをいただいたので本当に助かりましたし、ぜひご一緒させていただきたいと思いました。

野村さんは「お金なんか儲けなくていいから、我々が持っている知見で東北に貢献していこう」と熱く語られていて、それがとても嬉しかったです。野村さんのスタンスは自分の価値観とマッチしてるなと強く感じましたね。

 

 

ローカルヒーローを生み出す

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ーー今、相内さんはどのように仙台を見つめているんですか?

ぼく個人のことからお話をすると、震災から9年が経って、震災の傷を感じさせられる瞬間がだいぶ減りました。ようやく震災のドキュメンタリーなども、普通に近い感覚で見られるようになりました。

この数年は亡くなった友人のことがふいに思い出され、心がザワザワする瞬間がたくさんあったのですが、今はそうした機会も減りかなり心穏やかに過ごせるようになってきています。

一方で、震災復興にかけてきた「自分たちの街をより良くしていこう!」というエネルギーが、だんだんと薄れてきてしまっているようにも感じていて、それは少し寂しいです。もちろんまだまだ走り続けている方もたくさんいますが、「東京に右ならえでOKだよね。現状維持でいいよね」と思っている方々とのコントラストがはっきりしてきたなと。

これは震災が起こる前の通常の東北の状態とも言えるのですが、人の意欲が過去の状態に戻ってしまうのはちょっともったいないと思います。

 

ーー僕と野村は、東北のクロスセクターの姿を見て「これを東京に持っていきたい!」と思い、スタートしたのが「つなげる30人」でした。僕らからすると、東北から知見をいただいたという気持ちなんですよね。だから、気仙沼をつなげる30人にはまた違った気持ちがあるんですけど、実際にやってみていかがでしたか?

気仙沼のエネルギーは本当にすごいと痛感させられました。被災した地域の中でも、気仙沼は突出してチャレンジングな取り組みが多いと感じていたのですが、その理由を間近で見させていただきました。

東北で生まれ育った自分が、「この町は本当に東北なんだろうか?」とビックリするくらい「行動しないと意味がない!」「行動しないと何も変わらない!」と考えている方々が集まってくださり、とてもパワフルでしたね!

気仙沼はプログラムの時間が短かったので「参加者どうしがどこまで仲間になれるのか?」と心配していた部分はあったのですが、モチベーションが高いメンバーの皆さんを見ているとそんな心配はなくなりました。お互いの親交を深めるため、たびたび自主的に飲み会を開いてくださっていたり、主催者としてとても嬉しかったです!

また、同時に思ったのは「気仙沼モデルを探究して行けば、全国の地方都市でもつなげる30人はできる!」ということでした。気仙沼は決して大きな街ではありませんし、大企業のリソースが集中しているわけでもありません。それでもここまで熱量高いプロジェクトを生み出せたのですから、他の地方都市でも展開できる可能性が十分にあると感じました!

 

ーー「東北の心臓は仙台で、ここが動かなかったら何も変わらない」という話を過去にしてくれましたが、「仙台をつなげる30人」を今後やっていくかもしれないことを考えたときに、相内さんはどういうことを考えているんですか?

今日お話をしていく中で気づいたのは、「もう一度ローカルヒーローを生み出したい」という自分自身の想いです。震災復興の過程ではたくさんのローカルヒーローが誕生し、若者からすれば憧れる存在だっだと思います。そうした人が次々と生まれ続ける仙台を作ること、これがとても重要なことなのではないかと。

つなげる30人の取り組みは今後全国に広がっていくものだと確信しているんですけど、その流れでいつかは必ず”仙台をつなげる30人”がスタートすると思うんです。周りの県がどんどんやっていくと、自分たちもやらないと!という意識が働く土地柄なので。

でも、そういうモチベーションでやってほしくないじゃないですか。せっかくやるなら僕が入ってやりたいし、ちゃんと積極的な姿勢で価値をつくっていきたいですよね。ビジネスのセクターと、非営利のセクターで5年間ずつ働いてきた僕だからこそ、つなげる30の場作りを通じて、この街の活性化に貢献できるのではないかと思っています。

 

ーーありがとうございました!

 

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《文章:長田 涼》

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